ローマは紀元前2000年ころに、中部ヨーロッパから移動してきたラテン人によって作られた国である。
国家的形態を整えるのは紀元前8世紀ころであるが、早くから農業に経済的基盤を置く共和政治を確立し、紀元前146年には、地中海を隔てた対岸のカルタゴを滅ぼし、さらに、紀元前30年には、マケドニア、シリア、エジプトなども手中に収めて、東西地中海を制覇することで、世界帝国ローマの基礎を確立することになった。
その戦いと征服の繰り返しによって作られた歴史の中で、エジプトの美しき女王クレオパトラのシーザー(カエサル)への愛や、その後のアントニウスとのロマンスは、やがては、毒蛇に胸を噛ませての劇的な死へと結びついていき、こうした歴史の舞台裏の話題が、我々の興味を誘うことにもなるのである。
カエサルとクレオパトラ
ところが、こと音楽ということになると、ローマ人はなにもしなかったといってもいいだろう。
最も、それは音楽に限らず、ほかの文化面においても同様であった。
ローマ人にとっては、音楽は、奴隷としてのギリシャ人の音楽家たちに演奏させればよかったわけで、
自らがその創造に積極的に参加することは考えなかったからである。
しかし、ギリシャ以来の音楽や楽器は継承し、特に、軍隊用のラッパ類は、豊富な種類を持っていた。また、オルガンの最も原始的な形である、水圧式のものは、紀元前3世紀ころにアレクサンドリアで考案されたものである。
古代ローマのモザイク画に描かれた水オルガンを演奏する人
(2世紀ごろ、リビアのトリポリ考古学博物館収蔵)
しかし、音楽の面では彼らの直接の貢献はなかったものの、ローマ時代に急速に普及したキリスト教に、始めは弾圧を加えながらも後に公認するという形で、ローマ人が関わったことを考えると、音楽が、キリスト教とともに形を整え、成長していったのだから、間接的には音楽の発達に大きな役割を果たしたということになろう。