閑さや 岩にしみ入 蝉の聲 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ)

琶 薫

 

 

 音楽とは何か―――これまで多くの作曲家や演奏家たちがこの問いにそれぞれ答えてきた。音楽家とは、音楽とは何かを問いつめる人、といってもいい。

 音楽は音楽さ、それ以上に何を考える必要があろう、と思う人がいるかもしれない。たしかに音楽は耳で聴くものである。聴いて愉しむものである。あるいは慰められるものである。演奏し、うたい、そして心を満たされるものだ。しかし、曲が終わったとき、演奏がぴたりとやんだとき、その曲の、その演奏の余韻にひたりながら、人はときとして、音楽とは何か、という問いを考えさせられるのではなかろうか。その感動が深ければ深いほど。その幸福が大きければ大きいほど。私自身はいつもそうだった。

 そんなとき、私の心にかならず浮かぶのは、冒頭に記した芭蕉の一句である。この一句こそ、音楽の本質をはっきりと黙示しているように思えてならないからである。

 有名なこの句は芭蕉が奥の細道の旅の途上、山形の立石寺をたずねたときの吟で、夕暮れ、山上の堂にのぼると、あたりには人影がなく、岩上の院々は扉を閉して物の音ひとつきこえなかった。芭蕉はただひとり、「岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂莫として心すみ行のみおぼゆ」という境地に立っていた。その芭蕉の耳に満山をゆるがすような蝉の声が響いていたのである。それは岩にもしみこむほどの「閑さ」の力であった。

 しかし、考えてみると、この句は矛盾しているように思える。全山にこだまするような蝉の声があたりを領しているのに、それがなぜ「閑さや」なのであろう。だが、ここに音の秘密、そして音楽の本質があるのだ。音楽とは静寂というカンヴァスの上に描かれた絵だからである。じっさい、静けさというものがなければ、どうして音楽は生まれでることができよう。音楽は静寂のなかから現れ、沈黙のなかへ消えてゆくものといってもいい。だから、真に音楽を愛する人は、同時に、静けさを求める入である。閑さの中で「寂莫として心すみ行」のをおぼえる人こそ、たとえ歌がろくにうたえず、楽器ひとつ手にしたことがなくとも、真の音楽家だと私は信じている。

 静かに! お静かに!

 では、音楽への旅に出かけよう。

「音楽への旅」より

 

森本哲郎   1925年10月13日 – 2014年1月5日

東京都生まれ。

東京大学文学部哲学科、同大学院社会学
科卒業。朝日新聞東京本社入社。学芸部次長、「週刊朝日」
副編集長.朝日新聞編集委員を経て、1976年(昭和51年)退社。
その後は、評論家として著述に専念した。
著書として「文明の旅」、「サハラ幻想行」、「信仰のかたち」、「おくのほそ道行」など多数がある。